夏期講習を頑張っています。
生徒達を見ていて思うのは、「頑張ることができる」というのは、立派な才能の一つだということです。いえ、先天的なもって生まれた天才という才能が1%以下の確率であるのだとしたら、「努力できる」は、後天的な、ある意味誰にでも、やろうと思えばやることができる才能だと思います。
新しく入ってきた生徒さんや、今まで塾に通ってことがないという生徒さんに多いですが、
・ぼーっとする
・指遊びが始まる
・時計ばかり見る
などが第1段階。
次に、
・寝る
・話しかける。友達にちょっかいをかける
などが第2段階。
上記の状態は、勉強を教える以前の問題で、職場で言えば「働く気がない人がいる」状態です。学志館の良さは、そうした姿勢が見えると、村山や宮城から指導が入ることですが、僕は、今の小学生に危機感をかなり持っています。
悪い子はいない。
暴れん坊や、学級崩壊につながるような「悪さをする」訳ではないのですが、
ぼーっとして、無駄に時間を過ごし、
騒いだり、ちょっかいをかけたりしなければ=他人に迷惑さえかけなければ、放っておかれて自由にぼーっとできる。頑張らなくてもいいと考えているように見える子が、新入塾生に多いです。
これって、ものすごく残酷な事ですよね。
小学校の6年間というものすごく大切な時期に、「騒がばなければ、ぼーっとしてサボれる」事を6年間修業するんです。(大人で言えば、見つからなければ仕事をサボることが習慣化されている状態です)
仲家先生は、「それは正すのに倍の12年はかかるね」とおっしゃいますが、僕も少なくても同じ年数の6年はかかるのでは?と思っています。小学校でサボることを覚えた子が、中学で急に目覚めるなんて見た覚えがありません。
「個別の他塾へ移ります。」
そう言って去って行った生徒のその後を何人も塾生を通じて聞いてみましたが、良く変化した例を見たことも、聞いたこともありません。
人はそう簡単に変われないのです。
しかし、
学志館では、「努力できる」才能を身に付けるためのトレーニングを課せられます。
全ての生徒ではないですが、大部分の生徒たちが「努力で未来を変えよう」としています。そして、少数ですが、浮足立って、なかなか努力できずにぼーっとすることが癖になっている生徒たちも、周りの気迫に巻き込まれて、だんだん頑張れるようになります。
なので、学志館は、厳しいと言っておきます。
いえ、笑顔で楽しく大笑いしながらも、そして、「何度でも教えるし、隠していないで持っておいで。教えるから」と言われて少しずつ変わっていくのですが、やはり、限界突破に挑戦させます。厳しいのではなく、挑戦させる塾でしょうか。
今とは違う結果を望むのであれば、「行動」を変えなければならない。
それは、口だけ「やります」では見えませんが、行動は必ず見える。今の、学志館の生徒たちの姿を見ていると、「頑張っている」と、ちゃんと見えます(頑張っていない生徒もちゃんと見えます。指導していきますね)。
だめな自分を変えるのには、痛みを伴います。
楽して、良い思いをしようなんて虫が良すぎます。何かを得ようと思ったら、何か(今までの快適だと思っている悪習)を捨てなければいけない。頑張ろうね。しんどいね。でも、その頑張り(苦痛)が、苦痛でもなんでもなくなり、簡単に思える日が来ます。