様々な運動が脳に与える影響について書かれた本ですが、
僕がこの本の中で、もっと心動かされたのが、
11歳の女の子に心拍数を計測できる機械をつけて走らせる話です。
運動音痴のこの女の子。
いつも体育教師から「もっと頑張らないとダメだ」「真剣に!」と叱られていたそうなのですが、
心拍数を計測する機械をつけて調べた所、他の誰よりも限界に近い心拍数が計測されました。
速く走ることと、自分の限界に挑戦しているかは別問題であること。
他者との比較では、彼女は頑張っていないが、自分との戦いにおいては誰よりも限界に挑戦し努力していたこと。
そんな彼女を、どうして責めることができようか、
そして、今まで、自分の限界の努力をして来た彼女に、「もっと真剣に頑張れ!」と言っていた自分が情けなく、どれほどの運動嫌いの子を育ててしまったんだろうと後悔する話です。
勉強も一緒ですね。
そしてそこにはこう書かれています。
「自分基準の努力でいい」
それは、決して「どうせ自分は」や、本当は真剣にやっていないのに、自分は頑張っているからいいじゃないか、認めろという意味での「自分基準でいい」ということではなく、
昨日の自分を超える努力ができたか、
あるいは、超えられないまでも越えようとしたかどうかが大切なんじゃないかなと思うんです。
僕も休みの日には、次女の勉強を見る機会があります。
長女のようにコツコツした努力ができません。
長男のように、さっとできません。
でも、彼女は間違いなくサボろうとしているのではなく、「できるようになりたいな」と思って努力している様子が伺えます。
「昨日より、3つ多く漢字を覚えてみようか」
運動会で疲れていた様子でしたが、
少し頑張ることができました。本人の限界を少し超えた努力ができたら、認めてあげたいし、褒めてあげたいと思います。
塾生も同様で、サボっていたら猛烈に注意されます。そして、ぼーっとして、意識していなくて結果が出せるほど受験は甘くありません(受験は他者との競争です)。
それだけに、自分で「自分基準でいい」なんて甘いことを言う子ではなく、努力ができ、
先生側が、しっかりとその真偽を確かめ、導き、
「自分基準の努力でいいんだよ。頑張っているね」と言って、伸びて行く子に育てたい。そう思っています。