昨日、本日と、村山はある英語プロジェクトのために外出しておりました。
そこでのお話です。
検定における、英作文の採点で、満点の評価が返って来たそうです。
家でよく見てみるとスペルミスが見つかりました。
お母さんも本人も、学校の先生に持っていき、「こんなことで良いんでしょうか?」と聞いたところ、
学校の先生も「そうですよね。。。」
と互いに無言になったそうです。
しかしながら、こうした例は、多々発生しており、今までの日本の正しい英語でなければいけないという判断基準から、
いかに伝えたいか。
単語が少々間違っていても、書こうとしたか、
その思いが高いと思われる答えを頑張って書いたかどうかの方が評価される傾向にあるというお話を聞きました。
勿論単語はちゃんと書けたほうが良いです。
しかし、「ちゃんとしなければ」ばかりで書けなくなっている=英語から逃げているよりも、間違っても良いからガンガン書こうぜ!という世界観を大切にしている?(それとも単なるチェックミス?)
その真偽は確かめられませんが、
どうやらこれからの英語は、こうした使うこと重視、伝えたい熱量重視になるそうです。
学志館内でも、生粋の受験畑で指導してきた先生方は、「自由英作ではなく、文法をしっかりと。。。。単語は。。。。。こんな表現は使わない。。。。」と正しいことを重視します=でないと現在の入試では減点されてしまう可能性が非常に高いからです。
逆に英会話畑の先生は「えーよえーよ☺どんどん書いてごらん。少々間違ってたって良いよ(受験英語科の先生は「ええことない!」)」となります。
どちらが正しいではなく、今後受験英語と会話が融合し話すことと聴くことができ、読むことができるという分野はより英会話的に、
そして書くというのは学問なので、文法などの正しさが残るのかな?という感じでしたが、日本の英語の未来像は、ここから何年もかけて変わっていくようです。
学志館といたしましては、
「正しさばかりで面白くなく、話せない、聴けない、読めないじゃダメ」だし、
じゃあ「フリートークや、話すのには抵抗感もなくレベル的に英検2級レベルなのに、中2の定期テストで60点の平均レベルじゃあ、あかんやん」と考えます。
お子様も、英語をバリバリやっている子と、全然やったことがなくて初めて!という子がいる状態です。どちらにも対応できるのが学志館の強みとなるよう、文法はがっちり授業で行なっていますし、会話的な英語は英会話教室や速読英語で多読や英語に触れる頻度を高めています。これからも日々改善を加えてまいります。
そして、一生懸命書こうとしたことが評価される世界って素晴らしいですよね。
塾の講師達にもよく話すのですが、
「先生っていう仕事をしている人は、何かと正しいか、正しくないかで物事を判断したがるけど、
正しい勉強法で言えば、
先生の言っていることが正しいに決まってるよね。
じゃあ、家であれば、親が言っていることが正しいに決まっているよね(子供が家族を養っているわけじゃないんだから)
仕事で言えば会社のいうことかな?
でも実際に、自分が子供の立場や、会社からの指示を受ける立場になったら、
「やるのは俺なんやけど?」って思うと思うんです。
正しいと必ず納得してやってる?
正しいとわかっていても、お前に言われたくない!とかでやらないことってない?「何がではなく、誰が言うのかが重要だ」という言葉もあります。
人は、正しいからってやるとは限らない。
(現に僕はダイエットするのが正しいことだとわかっていても、できなくて太ったままです)
なのにそれを子供に押し付けるのはどうかな?と思います。
「俺はこれが正しい!」と言うのも、自分がそう思って行動するの自由です。
でも僕じゃないんなら、「その上で君が決めなさい」
が僕の教育上行っている事ですし、僕と違う判断をした子を、凄く興味深く思います。失敗したって、そこで初めて「やっぱ村山先生の言う通りにしとくべきだった」でもいいと思うんです。
うちの塾の先生も、もし、自分の言う正しい勉強法を守らない子がいた時に、それを排除するという考えや、そうした態度を取る先生にならないで欲しいのです。正しいのはわかっているけど、できないのが人間。だからこそ、その正しさを何度も言って、見せて、支えて、裏切られてもさらに信じて「こうしなさい」と言ってあげ、
その上で、自分とは違う方法ででも結果出す子が現れるのを期待の目で見守って欲しいと思います。
正しい英語より、伝えたいという熱量で丸がもらえる様に、
成績がいいのはもちろん褒められるべき事だけど、
その努力が認められ評価されるって素敵ですね。